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  2. コラム 明治維新胎動の地 山口
  3. 山田 稔 氏

 松下村塾に、絵師の肩書きを持つ異色の門下生がいました。その名は、松浦松洞(しょうどう)。
 彼は、松陰からの信頼も厚く、「無窮」(むきゅう)と称され、増野徳民(無咎)・吉田稔麿(無逸)と共に「三無生」として愛されました。
 文久2年(1862)4月、尊王攘夷運動に奔走する中、京都において、志半ばで自ら若い命を落としました。享年26歳。門下生で最初の落命者となったこともあり、松洞の死を無駄にしないよう、同志たちは一層奮起したといわれます。

 松洞は、天保8年(1837)、萩城下松本村の魚商庄之助の2男として生まれました。通称は亀太郎、名は知新、字は無窮・温古、松洞・聴鶴と号しました。
 幼少から絵を好み、早くから神童の呼び声が高く、嘉永3年(1850)、14歳の時に萩の絵師・羽様西涯(はざませいがい、1811~78)に入門し、本格的に日本画を学びました。のち、京都に出て、羽様の師で下関出身の小田海僊(おだかいせん、1785~1862)のもとで修業を積み、さらに技量を高めています。

 四条派の絵師としての修行の中で、詩を学ぶ必要に迫られた松洞は、漢詩の教えを乞うため、20歳で松下村塾に入塾します。松陰は、自身に風流文雅の才がなく、松洞の期待に応えることはできないが、己の知る限りの知識を提示し、松洞が自ら選び、学び取ることにつながれば、それが一番だとしました。
 松洞は、松陰の影響を受け、次第に尊王攘夷運動に奔走するようになります。彼は、忠孝節義の人物を描き、世間の意識昂揚を図ることで、勤王の絵師としての役目を果たそうとしました。
 一方、松陰は、僧月性や烈婦登波など、自身が認める忠孝節義の人物を見つけては情報を提供し、松洞の作画活動を積極的に支援しました。松陰は、画と詩の力によって彼の勤王の志を貫徹させようと考えたのです。

 志士としての活躍もさることながら、彼の名を後世に残したのは、何よりも絵師としての才能を発揮し、生前の松陰の肖像を描いたことです。
 松陰は、肖像に添えた自賛の跋に、こう記しています。「松洞は、自分という人間を良く理解しており、単に自分の姿を写すのではなく、人格や思想までも描き込んでくれる」と。松洞にとって、絵師として、門人として、この上ない喜びであったでしょう。

 安政6年(1859)5月、幕府から長州藩へ、松陰の江戸護送の命が下りました。生きて二度と萩の地を踏むことはないと覚悟した松陰は、旅立ち前に、自身の肖像に自ら賛を入れた「自賛肖像」を作ることを決意します。
 当初、「諸友」宛ての2幅を制作したのですが、数日後、久坂玄瑞・品川弥二郎ら門下生の依頼で4幅を追加したため、合わせて6幅の自賛肖像が出来上がっています。これらは、いわば松陰の形見として大切に受け継がれ、今もそのすべてが残っています。


「吉田松陰自賛肖像(中谷本)」(部分)、
山口県立山口博物館蔵

 松陰の写真は存在せず、その風貌を知り得る術は、残された自賛肖像しかありません。この自賛肖像は、寿像(その人の存命中に作っておく肖像)という点でも貴重であり、松陰が自分で鏡を見て出来栄えを確認した、いわばお墨付きの肖像なのです。
 明治以降、松陰の肖像画や彫刻が盛んに作られますが、いずれも自賛肖像をモチーフとしています。まさしく、松洞の描いた肖像が「松陰像」の基本となり、後世に受け継がれているのです。

 時代が違えば、松洞はそのまま一人前の絵師として身を立てていたかもしれません。しかし、幕末の激動は、長州・萩の一青年の運命を変えました。
 日本史上の忠孝節義の人物を精力的に描くことにより、勤王の絵師としての使命を果たそうとした松洞の、最後に描いた人物が、師・松陰であったことに、計り知れない縁を感じずにはいられません。

プロフィール

山口県立山口博物館 学芸課長 山田 稔氏
出身 1961年 山口県宇部市生まれ
主な経歴 広島大学教育学部卒。山口県文書館専門研究員、山口県教育庁文化課文化財専門員山口県史編さん室専門研究員などを経て現職。山口県史編さん執筆委員。
主な編著書
(明治維新関係)
2007年
「昭和三十四年吉田松陰殉難百年記念事業」
(『山口県地方史研究』第97号)
2010年
「吉田松陰自賛肖像考」(『山口県文書館研究紀要』第37号)
2011年
『長州維新の道・下巻「萩往還」』(分担執筆、図書出版のぶ工房)
2015年
「吉田松陰自賛肖像考―肖像画の中の松陰-」
(『2015年NHK大河ドラマ特別展「花燃ゆ」図録』所収、NHK、NHKプロモーション)
2017年
萩ものがたり56号『吉田松陰肖像画の絵師 松浦松洞』
(一般社団法人萩ものがたり)