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小山 良昌|戊午の密勅と毛利敬親 一枚の密勅から時代が動いた

 安政5年(1858)6月、徳川幕府は日米修好通商条約を締結し、新たに京都に近い兵庫を開港場とした。当時の孝明天皇はこの条約には懐疑的で勅許をしなかったため、幕府の越権行為として勤王の志士たちが破約攘夷を叫び、幕府を支持する佐幕派と国論を二分した。

 同年8月のこと、萩城下町に薄汚れた身なりの武士が「藩の重役に密会したい」と直目付(じきめつけ)梨羽直衛を訪れた。訝しんだ梨羽が身分を正すと、右田毛利家臣甲谷(こうたに)岩熊と答えた。そこで、梨羽が家老益田親施(ちかのぶ)に通報し、同夜益田が密かに甲谷を自宅の茶室に招いて会うと、何と朝廷からの密勅を差出した。密勅の日付けは「南呂初五」即ち8月5日付で、その要旨は、

天下騒擾(そうじょう)の兆し有り 内裏(だいり)を守衛する忠臣はいないのか 天皇がご心配しておられる」

とあって、暗に朝廷の守衛を毛利敬親へ依頼した内容であった。

 この密勅は、水戸藩主宛に出された有名な「戊午(ぼご)の密勅」の3日前の日付で、朝廷では水戸藩へ密勅を下すに当り、騒乱になった場合の朝廷護衛策として、勤王の毛利家に朝廷の守衛を依頼したものと考えられる。

毛利家に届いた戊午の密勅
毛利家に届いた戊午の密勅(毛利博物館蔵)

 じつは、毛利家の遠祖は平安時代初期の平城(へいぜい)天皇の御子阿保(あぼ)親王で、中興の祖毛利元就は天皇から皇族の象徴である菊の御紋を下賜されており、江戸時代には300諸侯中では唯一の皇族系大名であった。従って、徳川幕府は諸大名の朝廷との接触を厳しく制限していたが、毛利家だけは例外的に伝奏公家(でんそうくげ)の勧修寺(かじゅうじ)家を介して朝廷へ献銀し、経済的援助を行っており、朝廷からも厚く信頼されていた。毛利博物館では朝廷からの献銀の礼状「女房奉書(にょうぼうほうしょ)」を四百五十通近く所蔵している。それ故、江戸時代には「勤王の毛利家」は国内の一般常識で、特に天皇贔屓(びいき)の京都市民からは、毛利家、毛利家臣は好意を持たれていた。また、毛利家臣も皇族系大名の家臣であることに誇りを持ち、吉田松陰や高杉晋作など多くの勤王の志士が活躍したのであった。

 密勅を開いて驚いた親施は、直ちに敬親公に報告し、御前会議を開いて、

毛利家は皇室の藩屏として天朝を守衛する

ことを決定し、執政周布政之助が参内して、議奏三条実愛(さねなる)を通じてその旨を奉答し、天朝にご安心いただいた。

 この密勅の下賜を契機として、敬親公は天朝を守衛するためには藩の軍備を充実し、富国強兵の必要性を痛感し、信頼する周布など腹心の家臣の協力のもとに軍備の強化を進めた。

 従来長州藩では、村田清風が考案した銃陣「神器陣(しんきじん)」を採用していたが、長崎でオランダ人が伝授する長崎海軍伝習所の受講者による西洋式銃陣の演習を行ない、神器陣と比較した処、神器陣は「烏合の衆」にしか見えなかった。また、毛利水軍は村上水軍二家が担ったが、彼らの戦法は旧習を墨守して小舟に掉(さお)さし、帆柱を操り、中世の水軍そのもので、時代遅れであった。

 敬親公は内外の情報収集にも積極的で、特に幕府が外国へ使節を派遣する際には必ず藩士を同道させ、米国や欧州諸国の進んだ文化・軍事力を認識していた。特に文久2年(1862)の一年間、幕府の遣欧使節に同道して英仏など6か国を見聞した、杉孫七郎による英国の最新兵器アームストロング砲の量産、700馬力の軍艦の建造などの報告は、皇室の藩屏を奉答した敬親公にとって、攘夷戦争での勝利を絶望的なものにした。そこで、敬親公は次善の策として、敗戦後の外国との交易を考慮して長州ファイブを英国へ派遣した。長州ファイブの横浜出航は、馬関攘夷戦争が始まった2日後の5月12日であった。

 また、敬親公は優秀な人材の登用にも積極的であった。地下医(ぢげい)(農民)で兵学者であった村田蔵六を抜擢して百石の大組士に採用しているし、また、吉田松陰門下生の伊藤博文や山縣有朋など多くの足軽中間らを藩士に取立てたが、文久3年(1863)6月には人材登庸令を発し、

我が藩は尊王攘夷の大義に殉ず非常の秋(とき)・・・英俊の士あれば、門閥格式を問わず政務に参与せしめ、諸隊に加え・・・天下永遠の策を樹立すべき秋に際会(さいかい)せり、未だ人材足れりと云うべからず」

 として、皇室の藩屏として不足する兵員を、奇兵隊などの諸隊を認可して有為の人材を求め、その結果、多くの諸隊が生まれたのであった。

 元治元年(1864)8月、四国艦隊による馬関襲来後の講和会議には、上海訪問を経験した高杉晋作や外国を熟知する杉孫七郎、井上馨、伊藤博文ら海外視察組の活躍によって和議が結ばれ、以後、最強国英国とは昵懇(じっこん)の仲となった。文久元年(1861)、藩は三田尻御船蔵に海軍局を設置して元締めとし、既に英国商人から同2年に壬戌(じんじゅつ)丸、同3年には癸亥(きがい)丸を購入していたが、慶応元年(1865)には乙丑(いつちゅう)丸、同2年には丙寅(へいいん)丸、第二丙寅丸、同3年には鞠生(まりふ)丸を購入し、明治元年(1868)には第一丁卯(ていぼう)丸、第二丁卯丸、華陽(かよう)丸、鳳翔(ほうしょう)丸と一挙に4隻の軍艦を購入して海軍を増強していった。

 一方、陸軍については西洋陣法を採用し、火縄銃や甲冑など古武器を売り払って英国商人から最新のライフル銃を購入し、能楽者には洋式軍楽演習をさせ、足軽中間をはじめ鷹匠、鵜匠、猟銃師から陪臣に至るまで悉く銃隊に編入し、本藩・支藩が一丸となり、隊長には本藩の適材を任じた。そして長期間にわたって、西洋陣法による猛特訓を行ったが、その際の訓練服は和服を止めて活動し易い筒袖釦(ぼたん)詰の衣に短袴に改めた。後には正式な軍装は、黒色胴着筒袖(つつそで)の小袴、呉絽(ごろ)服に韮山笠(にらやまかさ)と定めたので、戦闘活動には大変重宝し、和服甲冑で対戦した幕府兵を一蹴することが出来た。

 訓練は規則に従い、上官の号令を守り、秩序を乱すことなく整然と行った結果、後の戊辰戦争の際、諜報(ちょうほう)活動をする英国公使館付の外科医者ウイリアムが、英国公使宛の報告書に、

この戦闘において、長州兵は最も訓練の行き届いた、一番強固な軍勢であると誰もが賞賛を惜しまない

 と報告した最強軍勢が生まれたのであった。その結果、慶応2年(1866)に始まった四境戦争では、僅か5,6千人の長州軍が15万人の幕府の大軍を退却させ、明治元年(1868)から始まった戊辰戦争に勝利して明治維新を成し遂げたのであった。

 その結果、藩主毛利敬親は明治天皇から直接、

内外大難(たいなん)を凌(しの)ぎ鞠窮(きっきゅう)尽力し、終に朝廷をして今日有るに到らしむ、偏(ひとえ)に汝至誠の致す処感喜(かんき)述るに辞(じ)なし」

の優勅(ゆうちょく)を賜わっている。

 臣毛利敬親としては感激一入(ひとしお)だったことであろう。

プロフィール

毛利博物館顧問
出身 昭和 13 年生まれ 周南市出身
主な経歴 山口県文書館副館長、萩国際大学教授、毛利博物館館長を経て、平成 25 年度から同館顧問。 山口県地方史学会名誉会長。 「明治日本を創った人々」を基本テーマに、幕末から明治にかけて活躍した人々の掘り起こしを行う。